身体としての道具

道具が好きだ。

身体の拡張としての道具が好きだ。

自分が元々備えている手足その他身体では出来ないことが、道具があれば出来る。まるで自分の身体を拡張したかのような感覚で難なく物事を片付ける。そういう道具がとても好きだ。


例えば、今乗っている原付がそうだ。ヤマハのメイト、既に生産されていないヤマハのビジネス用原付バイクだ。見た目があからさまにカブそのものだからよく勘違いされる。とはいえ、見た目どころかロータリー式の変速機もまるっとそのまま一緒だから、というか完全にヤマハの方が後追いで作ったソレだから似ているのも当たり前な話。

話を戻して、道具としての原付がとても好きだという話。

自分の足ではとても及ばないスピードで奔り、自分の膂力では到底運べない荷物を平然と運び、自分の体力ではとうに力尽きているであろう距離も難なく運び切る。

それだけなら、単に実務的な側面で利点がある、というだけの話だが、こと身体としての道具となると、「まるで自分の手足のような感覚で」という接頭語が付随する。そしてそれこそが何よりも一番重要だと思う点でもある。

オートマチックの車、便利だ。発進するときはアクセル踏んだらそろそろと走り出すし、徐々に加速していく中でもギアはDのままでよくて、そのまま高速道路で走行可能なまでに加速する。止まるときだってブレーキ踏んでるだけで徐々に減速していくし、信号で止まるときもキュッとブレーキ踏んでおしまいだ。とても便利な乗り物だ。ただこれを「道具」と称するには、いささか身体から距離が離れすぎている。もっと身体感覚の延長線にあることを感じられるものでないと、僕の中では道具たりえない。


ひとつの”もの”を使用するうちに、だんだんとそれが”道具”へと変遷していく過程もまた楽しい。かつては不器用にしか扱えなかったものが、まるで手足のように扱うことが出来るようになる経験。自分が思い描いた像を、手足とした道具によって実像へと顕現させた達成感。練度が上がるにつれ、より思い描く像への近似を目指す求道心。

そういうのが、楽しい。

仕事柄、いろんな道具を扱うことがある。小さなものはドライバー、大きなものはフォークリフト。前々から使用したことのあるものもあれば、そも用途が一切わからないようなものもある。それらを自在に扱えるようになっていく過程は、今の仕事の好きなところの一つだと思う。

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