不安と踊れ

生きていると、よく不安がやってくる。

気持ちと先行きが暗澹となるニュースを耳にした時だったり、よくない出来事に遭遇した時だったり、あるいは特別何かが起きたわけでもないのにふと突然そういう気持ちになったりした時に、不安がやってくる。


不安はいつだって突然やってくる。三月のライオンのように。去るときはすっといなくなる。子羊のように。

そのことをきっと誰しも自然と知っているから、人は不安を遠ざけようと躍起になる。

わかりやすいのは、お金を得ること。資本主義が蔓延しているこの世界において、一定の収入を得ていることや必要十分の範囲を完全に逸脱した資産を形成することはひとつのステータスとなっている。また社会的な動物である人間は何かしらの集団に属しているのが常であって、その中で安定した地位、確固たる権力、絶対的なイニシアティブを保持することもまた、人を不安から遠ざけてくれる素敵な材料になる。

そうまでしたところで、結局人は根源的な不安から逃れることは出来ない。つまるところ、命は有限であり、命あるものいずれ死ぬという不安。


そういうことを考えると、そもそもどうにかして不安を自分の生活から排除しようという試みって、滅茶苦茶不毛なんじゃないか?となる。

勿論、日々のたつきとして何かしら仕事をして対価を得る行為は何かしらしといた方がいいんじゃないかと思うし、そして当然それを日常とすることによる新たな不安もそこかしこに湧いて出てくることに対してはほとほとげんなりする。出来ればそういう不安はこの世から一掃されてほしい。

ただ、積極的に精力的に全力を用いて不安を徹底的に排除しよう、という行為は、結局のところアキレスの亀のようにどこまで行ってもたどり着けないものであって、それを徹底的に追究するんだ!という、一種の求道者のようなものとなるのなら止めはしないけれど、個人的にはご遠慮願いたい。どこまで逃げても世界の果てまで行こうとも、不安は自分の足元の影のようにすぐそこに在り続ける。


それよりは、今の自分、その生活、その中で浮いて出てくる各種諸々の不安どもと、どうやって共生していけるもんだろうか。そんなことを考えている。

最近読んでいるのは『ヨブ記』。旧約聖書に収められている物語。

それにまつわる本も合わせて買ってみた。内村鑑三とか、カントとか。読み込めるかは全然わからないし、そもそも今すぐ読まねばならない類の読書でもない。なんなら結局死ぬまで読めないかもしれない。それならそれでいいと思っている。そういう「本との付き合い方」もいいものなんじゃないかと最近は思う。

本とそれにまつわる人たちのことを知れば知るほど、自分の料簡の狭さに呆れるし、そしてまあこれから変えていけばいっか!と変な楽観さも発揮している。

話を戻して。

『ヨブ記』を読もうと思ったのは、去年ツイッター上で豊田徹也さんの漫画を読んだから。言ってしまえばきっかけはとてもミーハーなものだったし、とりあえず手に入れてみようという程度の気持ち、それと引用された文章の悲愴さが気になって、岩波の文庫を買った。毎日一作ずついろんな漫画家さんが短編をツイッター上に掲載していく企画「Day to day」の中で、この作品は異彩を放っていた。

良き妻や子に恵まれ、豊潤な資産を持ち、後ろ指を指されることなど何一つない、偉大なる神すら認める敬虔さを持ち合わせた信徒ヨブ。彼のような「善き者」の身の上にある日突然なんの謂れもなく災厄が振りまかれる。彼を慰め励ましに来た3人の友と、限りない絶望の只中で言葉を紡ぐヨブの対話。概ねの持てるものをすべて失ったヨブは一体何を考えるか。そういう本。

決して厚い本ではない。むしろやや薄いくらいの小さな文庫本。でもきっとこれを読み切るのにはとても時間がかかる。

読み終えたところで、それで不安が晴れてくれるような類のものではない。そもこれをしたら不安がなくなります、という文句の全てはおおよそ嘘っぱちか、はたまたロボトミーのように根本から頭の回路を変えてしまう類の話だと思っている。社会にはそこかしこに虚飾にまみれた安心が跋扈している。とてもお手軽で浅ましい安心。簡単に身につく安心は風が吹けばどこかへ飛んで行ってしまう。そうするとまた仮初の安心を求めて右往左往する。

それよりは、そこに不安があることをその目で認め、なんなら一緒に踊ってやった方がいい。自分の手でそいつを引いて、自分の足でタップを踏んで、不安に振り回されながら不安を振り回してやればいい。簡単な安心なんて要らない。そのうちきっと楽しくなる。ならないかもしれないけれど、その時はその時だろう。

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