あなたの本当はどこから?私は猫から

もしかしたら、本当に行きたい本屋というのはこの世の中に存在しないのかもしれない。



という事をふと昨日考えていた。全くの与太話ではあるけれど。

そも、まず「本当に良い」本屋とは何か、という事を考えていた。

「本当に良い」。これほど胡乱な言葉が他にあるだろうかと思う。わりにそこかしこで見かける気がするし耳にする気がするけれど、乱発するにはあまりにも不確かであやふやで、そのくせ一方的で強圧的で盲目的だ。

事物の良し悪しを断ずることに対しての不和だろうか。それもなくはないと思う。ひとつの事物が良いのか悪いのかということはそう易々と断ずることは出来ないし、ひとたびそれが良しとされていたところで、時ところ変われば悪しとされることだって往々にしてあるし、僕が良いと思っているものが他の誰かには蛇蝎のごとく忌み嫌われるものかもしれない。

でもそれ以上に、「本当」という言葉に対しての不信感が、「本当に良い」という言葉に対する警戒心を最大限に引き上げている。


ほんとう【本当】まこと。①本物であり、偽りや見せかけのでないこと。②まさにその名に値すること。(岩波 国語辞典 第七版新版)


あるひとつのものが、まことであるか、本物であるか、その名に値するのか、それを決めてしまう姿勢に対して、僕は警戒しているのだろうか。一方が真であるとするならば、対照となるものは必然に偽とされてしまう、そういう構造で用いられる「本当に良い」という言葉が苦しいのだろうか。何かひとつのものの評価を一方的に断じてしまうことに対しての忌避感、お前は何様なんだよという憮然とした気持ち、そも本物以外は認めないという狭窄した姿勢。それらが気に入らないのだろうか。

そんなことを考えていると、何もかもがおぼろげで、虚飾に彩られたものであるように感じてしまう。そこに確かなものなど何一つない。


書いていてふんわり思いついたのは、「本当」という言葉には普遍性がまとわりついている、ということだ。これは本当に良いものである、イコール、これは真に普遍的な価値を有するものである。というような。

あるひとつのものを「本当に良い」と言っている人、その言葉には主体性がどれくらい込められているのだろうか。本当に良い、だからこうである、と付加価値を添加したがってやしないだろうか。



この辺まで書いてだんだんと本当に気鬱になってきたのでいったん横に置いといて、哲学者が難しい言葉やいろんな引用を施しながら結局は「ネコチヤンカワイイ‼‼‼‼‼」って言ってる本を読んでた。



結局、物事の良し悪しを考えるときに「本当」という一見正当性があり普遍性がありこの世の理に肉薄するかのような単語を用いて良し悪しを決めるのではなく、とてもシンプルに「自分自身がそれを良いと思うかどうか」というところをもっと当たり前に大事に、そして堂々と言い放っていき、それに則って人生を謳歌すればいんじゃねぇかなと思った。

多分その方が生活するのが楽しくなる。

本当に行きたい本屋がどうこうなんていう与太話は、猫を前には無力。あー猫が傍にいてほしい。もしくは猫になりたい。人類にゃーん計画。

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