道徳とショートケーキ

とある漫画のワンシーンに感銘っぽい何かを受けて、素手でショートケーキを頬張ってみた。

わかりきっていたこととしては、手はベタベタになるから食べることに専念しなきゃならない上、当然ケーキは絵で見た感じ以上にフワフワで柔らかいシロモノだから落とさないよう崩さないよう気をつけなくちゃいけない。あと漫画では先端から食べていたけれど、実際やってみるとおしりから食べた方がなんか食べやすかった。

やってみた感想としては、勝手に抱いていた幻想ほど素敵ではなかったな、ということだ。何事も経験だ。

ものの勢いでもういっこ買ってきたケーキは、ちゃんとコーヒーも淹れてフォークで美味しくいただくことにする。



道徳、という言葉の物騒さについて考えた一日だった。

手元にある辞書を引いてみると


どうとく【道徳】社会生活を営む上で、ひとりひとりが守るべき行為の規準(の総体)。自分の良心によって、善を行い悪を行わないこと。 (岩波 国語辞典 第七版新版)


とあった。ふわっとしてんなぁ。主観的な言葉ばかりで構成されていて、発言者如何によってどうとでも姿形が変わる言葉だ。

でも実際、道徳とか正義とか絆とか、そういう類の「普遍的な善性という幻想」を元手にした言葉ってものは、大体がそうだと思っている。容易く言葉にしたくはなるし、それで相手のご意見を封殺するのはとても気持ちがいいのだろうが、だからこそやっちゃあならない。自分が思う正しさとか常識なんてものは、自分の身を置く環境によって全く評価が変わる。あっさりと肯定され次々と賛同を表明する人たちに囲まれることもあれば、その片鱗を見せようものなら怪訝な目を向けられあまつさえ狂人扱いされることだってある。彼岸と此岸は、意外と歩いて渡れる程度の浅くて曖昧な川で繋がっているのかもしれないし、一度足を踏み入れたら二度と這い上がれないような、向こう岸に行くことなんて土台不可能な絶望で分かたれているのかもしれない。

もとより、「普遍的な善が存在する」「その善は絶対的なものである」「それに沿わぬものはすべからく悪であり、一片たりとも認めてはならない」という、凶暴で浅薄で残忍で無理解な姿勢は、自分の立ち位置がどうであれしない方がいいものだと思う。そういうスタンスを確立し、一種オピニオンリーダーを気取ることで一定の支持や社会的立場、経済的利潤を得ることを生業としている人たちはよく見かける。インターネットでもそうだし、そこいらでもそう。断言することを好む人たちはたくさんいるし、断言されることを望む人たちもたくさんいる。だから「道徳とはこうである」「これは道徳的ではない」という、本来とてもふわっとしているはずの言葉を断定的に用いることに対して違和感を持たないし、無批判で受け入れるのだろう。わかりやすく攻撃的で過激な姿勢のみならず、逆にそういった刺々しい言葉から距離を置くホッコリとした言葉で生活しましょうよという姿勢もまた、凶暴で浅薄で残忍で無理解な姿勢だと思う。一見まっとうに見えて善性に満ち溢れていて反論の余地を与えない言葉にこそ、最大級のおっかなさを感じている。

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