水木しげるは著作が多すぎて無理だった

誰それが結婚したとか亡くなったとか、そういう世間の動きを機敏に察知して店に置く本を再考する。

そういうことが出来る且つやらなくてはならない本屋さんは結構大変だ。


何かにつけて商機の有無を判断して、それを店にどう反映させるか、どれくらいプッシュするかあるいは相性などを加味してシカトぶっこくか、それらを可及的速やかに、正確に言えばその日の発注締め切りに間に合うように考えなくてはいけない。その日は手遅れな時間に知ったなら、ひとまず揃えた応急的資料を手に翌日扱いで発注できるよう選書をする。

何かしらの道に通じた大御所が亡くなった場合だと、そのうち放っておいてもどこか適当な雑誌や出版社が追悼特集を行なう。ジョアン・ジルベルトならラティーナ、半藤一利なら文藝春秋、田村正和なら多分ぴあ。ぴあって今雑誌あるんかな。フリーマガジンはなくなったはずだけど。そういうのを口を開けて待ってたきゃ待っててもいいんだろうけれど、大概の場合は何かしら著作や関連書籍を片っ端から調べて、店に置けるものをあらかじめ置いとく。置くのが難しいもの、基本買い切りのところから出てる本で、でもこれは置かねばなるまいよ…!みたいなものは、とても悩む。それにあまりに著作が多すぎて、ちょっとひとかじりした程度の人間では到底どれがどれだか見分けつかないのでこれも大変。逆に著作が全然なかったりするとそれはそれで困る。とにもかくにも、そうやって折に触れて過去の著作を調べるのは恒例行事でもあるし、特に誰それが亡くなったってときのそれは最後の勉強の機会でもある。

もちろんめでたいことで沸きあがっているときも商機となる。きっと今頃全国の書店さんはいっそいで『逃げ恥』を在庫ありったけ目立つところに据えて追加発注かけてるだろうし、星野源の過去作も同じく、ガッキーは写真集くらいか、ポップの心得がある人は大小さまざまなポップをこしらえているのだろうし、その陰で推しロスによってもはや一匹の蠢く蟲のごときなにかとなり果てた人もいるかもしれない。著名人が結婚すると一定数いらっしゃるああいう方々、なんか、すごいなっていつも見てる。そこら辺の悲しさの機微が、申し訳ないくらい本当にわかんない。みんな強く生きて。


今自分がやっていることは、そういうところからは縁遠いところにあるので、ぶっちゃけ結構気が楽。

こういうことはでっかい本屋さんが大取次の再販制度使って物流ガンガンに使いたくってこそできることで、買い切り前提の少部数仕入れのみを行なっている小さな本屋さんには基本的にあまり縁がない狂騒だ。

そう、狂騒。これは一種の狂騒的なお祭りだ。そういった即興的なお祭りを演出することも、本屋さんに求められている機能の一つなのだろう。それは理解できる。ただ今の自分が考える本屋の本懐は、むしろ狂騒から遠く離れたところの、静かで儚く見える、その実とても確かな存在で大切なものの懐にこそある。

こんぶトマト文庫のふみくら

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