そんなもんじゃ憧れは止められねぇんだし本を届けるのも止められねぇんだ

BOOK PORT CAFEの店内で小さな本屋を始めて1ヶ月半くらい

不条理なほど急に決まった緊急事態宣言に憤って突発的に「移動し続ける本屋」を始めて3週間ほど

その間僕は、全く出版とは関係ない本業を勤める傍らで本屋をやってきた。


営業利益としては、目も当てられないなんて言葉では生ぬるい。最初に仕入れた分どころかスリップその他印刷用に買ったプリンターの代金分すらペイできておらず、たつきとすることなんて考えたこともない。後者に至っては初日になぜかお声がけしてくれたハイパー奇特パーソンがおひとりいて、それ以降はただひたすら荷台に本を突っ込んでその辺を原付でひた走っているだけにすぎない。

本業はしっかりと正社員登用されているもので、つまり自分の意思で仕事をコントロール出来ない。今日だってちょっとばかりとはいえ残業が発生したし、職業柄不測の事態に対応せねばならないこともしばしばあるし、そうなると時間も体力も気力も何もかも、生きる力もたくさん奪われる。その出がらしの時間と気力とその他諸々を可能な限り総動員して、本屋をやっている。

総じていえば、その辺のどっかバイト探してるところで時間給のバイトしていた方が単純に儲けになるしよほど疲れない。


そういう中であっても、もう多分僕はこの生き方を止める気はない。というより、止めることが出来ないだろう。それは確信している。

ひとえに、自分が心底良いと思っている本を誰かに届けること、多分それは本でもなんでもよかったんだろうけれど僕の場合それは本だった、その良さを知ってしまった以上、それを自分の人生の軸とするのは、なんら不思議な話ではない。それは儲けることよりも、もっと言えば安定した将来ってやつよりもよほど大切なものとなっている。

かつて本屋で働いていた時は、もっとドライだった、というよりは感情が薄かった。雇われの身であり且つ売り場の担当者である以上、ある程度の売り上げを出していかねばならないから、と言い訳をし、新聞で紹介されていたなどの理由で置きたくもない本を置き、売りたくもない本を売っていた。今思えばひどい店員だったと思う。単純に実力が伴っていなかった。分不相応な権力を振りかざしていた。そうやって無思慮な僕が振りまいたものはどこかの誰かの中にどす黒いシミとなって残っているのだろう。悔恨してもしきれない。

その点、今はとても気が晴れている。自分が選んだ本は決してベストセラーとなったり大々的に広告で取り上げられるようなものではない。取次のランクでは最下位の称号を頂戴しているものも多々あり、明日の在庫も知れぬ、そしてひとたび在庫が無くなってしまったらきっと版を重ねてもらうことなく、ひっそりと、人知れず出版流通から姿を消すような本。

浅薄な人は「良い本は売れるべくして売れるのだから、そうやってなくなっていくってことは良い本ではない、もしくは努力が足りない」などと吹聴する。やっかましいわあほんだらぁ。


僕はこの1ヶ月ちょっとで、おおよそ40冊ほどの本を誰かに届けることが出来た。40冊。それは僕が何もしなかったらきっとどこにも行かなかった40冊であり、つまり僕がせいやと動いた結果誰かの手元に行くことになった40冊だ。その実感は両の手に重く質量を感じさせる、どくんどくんと血が通っている、くっきりとした輪郭を伴う、紛れもない本物の実感だ。

そういった実感だけで生きていくことが出来るのなら、そんな幸せなことは無いだろう。でも現実はままならないことばかりだ。でもそこで、まあ仕方ないよね、と諦念することはしない。

かつてサンデーで連載していた『ARMS』という漫画に、こんな一節があった。


「人の足を止めるのは絶望ではなく諦観 人の足を進めるのは希望ではなく意志」


今も好きな言葉で、よく思い出す。昨今絶望的な状況が留まることを知らない中でも、その中で一体自分をどうしたいか、どう在りたいか、どう生きたいか、という事はよく自問する。何でもかんでも自助してろと、己の責任を全うするどころか最もたちの悪い形で握って離さない愚かさがそこかしこに遍在する世相の中で、うるせぇやってやんよという気持ちを日々湧き起こしている。


最終目標は、死ぬときに「よく生きた!!」と思うことだ。「よく死んだ!!」ってなるとV8の方になるけど、あれは死後の世界を信仰しているがゆえの言動で、基本的に死後の世界の明確なビジョンを持ち合わせていない僕は、ふんわりとしている死後よりも今目の前の苛烈な現実をくそったれやなと思いながら真正面から受け止めていたい。できれば、たまにでいいから蹴とばせてほしい。

こんぶトマト文庫のふみくら

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