“孤独”の恢復 砂漠に砂が入りこんだ日/グカ・ハン 訳)原正人

 「孤独」が持つ両極性は、とても面白い。

 社会的なかかわりが断絶している類の孤独は、面白いなんて言ってられない。容易く生活を不全に陥らせ命の危険にも及ぶ状態ならば、早急にケアする必要がある。そういった社会的に根絶を目指さねばならない類の孤独ではなくて、当たり前に生活を送れている中で、一人一人の中へ不意に現れる類の「孤独」だ。

 蛇蝎のごとく忌み嫌われることもあれば、なにものにも代えがたいものとして寵愛されることもある。そのバランスは人によってまちまちで、同じ人であっても時々の感情によって大きく左右される。昨夜は誰にも会いたくない気持ちでいっぱいだったのに、今朝になったら適当な友達を誘ってご飯に行きたくなっている。こういった気持ちの移り変わりは、誰しも身に覚えがあるものだと思う。

 でも、「孤独」は好悪のどちらかへ極端に振れる二元的なものではなくて、もっと穏やかで静かにただそこにあるもの、例えば、空がある、くらい当たり前なものとして自分の中に存在しているんじゃないかと思う。太陽が昇ろうと沈もうと、雲一つない晴天だろうと嵐の夜だろうと、空そのものはいつだってそこにある。部屋の中に閉じこもったって、それは自分が空を見ていないだけで空が消えてなくなったわけではない。同じように、一人きりの場所にいても、家族や友達と穏やかな時間を過ごしていても、どこで誰といようともいなくとも、「孤独」はそこにある。あれやこれやと理屈をこねたり理由をあてがったりしたところで、私とあなたが別の人間である以上、「孤独」が消えてなくなることはない。

 それは絶望でも、ましてや希望でもない。最初からそうだったってだけの話で、これからもそうだってだけの話だ。本当に、ただそれだけだ。

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