“社会”の恢復 断片的なものの社会学/岸政彦

 分断、という言葉をこのところよく目にする。遠いところだとアメリカで、もう少し手近なところだと大阪で、それ以外にもあちこちで社会や政治をテーマとする場でこの言葉が用いられている。

 分かち、そして断つ。ひとつのものを大きさ問わずふたつあるいはそれ以上にわけ、それらを明確に区分し、わずかでも接触することを頑として拒む響きを持つ言葉。非常に強い言葉であるにもかかわらず、いやだからこそか、分断という言葉が一種の流行語としてあちこちで多用されている。


 僕はこの分断という言葉とその考え方の使い方があまり好きではない。

 ひとつは、全ての意見を是か非かの二極に振り分けてしまうところ。「社会」を構成するものがそう易々と二極化できるわけもないのに、細かなところの一切を都合よく無視して強引に分け隔てさせてしまうやり方は暴力だ。本来選挙や住民投票も、その後を考えると分断的な要素を持ってきてはならないはず。それをやってしまうとどうなるかはアメリカが身をもって示してくれた。

 もうひとつは、自分が属する側は全て同意見であり反対する者は全て敵であるとするところ。わずかでも懐疑的なそぶりを見せようものなら途端に刃を向けられる。当時は分断という言葉は用いられていなかったけれど、2011年の東日本大震災時の原発問題に関してそういう風潮があった。反原発を標榜する一集団において、政権への批判はいかなる程度のものでも称揚され、やりすぎなのではという声は瞬間的に非難の的になり、容赦ない言葉をぶつけられる。

 「社会」って、そんなシンプルなものじゃない。もっと複雑でもっとごちゃごちゃでもっと散り散りとした断片的なものの集合体だ。これは賛成だけどそれはどうかな、とか、普段はひどいけど有事の際は敵わない、とか。細分化し始めたらきりがない。それを誠実にとらえる行為は非常に労力がかかるし手間だし面倒くさいからさっさとハッキリと白か黒かに割り振ってしまった方が楽だしコスパもいい。だからこそ、僕は僕自身の参画の有無を問わず、そこら中にある「社会」に対して誠実でいたい。そこにいるのは紛れもなくひとりの人だからだ。

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