“家族”の恢復 結婚の奴/能町みね子

 紋切型の家族の絆を押し付けられることがある。個人の体験ではなく、国を動かす立場の人がそれを発している。数十年前程度の家族観および家族構成を大前提として話は進められ、そこから逸脱することは頑なに認められない。表面上の言葉では多様な家族の在り方を許容していても、実際的な話をとなると途端に偽りの寛容さは捨て去られる。この国は今なお一部男性たちのための国だ。

 他人を自分の考えで縛りたい人は、同時に自分自身がその考えに縛られているように見える。こうあらねばと断定的に叫ぶ声は、自分と賛同者との間で反響し共鳴して、その声以外何も聞こえなくなってしまう。輪の内側の、自分の同志ばかりの空間はとても心地いい。外から見ると、それはとても滑稽だ。

 家族とはこうでなくてはと叫ぶ人たちからも、同じ滑稽さを感じる。「家族」は自分の生活に最も近い他人の集合体で、他人がその在り方を一方的に押し付けること自体、とても浅薄で暴力的な考え方だと思う。もし法律がそうなっているってのなら、じゃあそれは変える必要がありそうだねってだけの話だ。


 僕には今「家族」がいない。そう感じることがある。

 こう言うと、あなたに親や兄弟はいないの?と返されるだろう。母親や祖母は健在だし、年近い姉と弟も一人ずついる。僕だけ遠方に住んでいるけれど、連絡が途絶しているわけでもない。

 じゃあ家族いるじゃない、と言われたら、まぁ確かにと返すしかない。

 でも、ただ血縁であるだけでこの関係を僕の「家族」であると言い切っていいのだろうかと考える。元々親の「家族」の中に僕が生まれただけで、僕が誰かと築き上げた「家族」ではない。この関係から「家族」となる道もきっとどこかにはあった。でもそうはならなかった。だから僕には今「家族」がいない。

 積極的に一人であることを選び続けたわけではないのだけど、今のところそうなっている。一人の生活はとても気楽だと思う一方で、ずっとこれだとたまにとても寂しくなるだろうなと思うこともある。でも、誰かに向かって声高に僕の家族となってくれ!と喧伝する気は起きない。何の因果か生活の一部分を共有するようになった、その小規模な集団を「家族」と呼ぶ。そういう在り方の方が何だかしっくりくる。「家族」だから関係が繋がっているんじゃなくて、関係が繋がったから「家族」になる。そういう在り方の方が、ホッとする。

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