“自分”の恢復 さびしすぎてレズ風俗行きましたレポ/永田カビ

 「自分」は、ほっておくとあっという間に自分のものじゃなくなる。

 他人の意見や誰かの期待だとか、学校や社会のなんとなくの雰囲気だとか、そういうものがごちゃついた中で生活していると、気が付けば「自分」と周りの境目がわからなくなってる。一体どこまでが「自分」の意見でどこからが他人ので、この願望や将来の目標は「自分」がそうしたいと思っているものなのか、それとも他人のものを押し付けられているだけなのか、はたして「自分」は、本当は何を望んでいるのか。

 「自分」がわからないままだと、周りの人や環境によほど恵まれていない限り、今いる場所から一歩も動けなくなる。右を選んでも左を選んで何しても全部が間違いなんじゃないかという恐怖で足がすくみ、ただ時間だけが進んで何もかもから置いてけぼりにされる。それはよくないよと周りの誰かに促されるがままどこかよくわからない方向へ歩いていっても、その先が真っ暗闇だったとしても誰も足元を照らしてくれない。自分で選んだ道なのだから自分で歩けと言われる。まだうずくまり、次第に誰も見向きしなくなり、そしてもう動けなくなる。

 もとより自分にはその傾向があると自覚していたけれど、去年は特に途方に暮れる瞬間が多かった。理由なく家から出ることを咎められることがとても苦しかった。誰にも会うことが出来ず、自分自身を持て余した。ネット上の言葉に振り回され、何が正しく何をすべきかそうでないのかが、全くわからなかった。その中でどう自分を「自分」として立たせていくか、それがとても大変だった。


 まずは「自分」を大切にすることをやり直した。バタバタしてても朝ごはんは食べてお風呂にも浸かって、部屋を片付けてボロになった服は新しいものに買い替えた。ひとつひとつをやっていくと結構手間暇もかかるしお金もかかる。風景となっていた事柄をきちんと捉え直すのには多少の根気がいるし疲れもする。でも、やれた分だけ「自分」を大切にできたなという実感があった。

 とは言っても、油断するとまたすぐズボラになるのが我ながら厄介だ。部屋はあっという間に汚くなるし面倒だしシャワーでいいやとなってしまう。その都度またやる気を巻きなおすのは骨だけど、相手はほかならぬ「自分」なのだから、やれやれと思いながらまた一個ずつやれるときににやっていけばいいかと思うようにしている。それくらいの気持ちでいた方が「自分」に疲れなくていい。

こんぶトマト文庫のふみくら

本屋「こんぶトマト文庫」のホームページです

0コメント

  • 1000 / 1000