愚かしく滑稽な私くし
※この文章は、2022年10月27日より茅ケ崎の喫茶店おもて珈琲さんにて行なっている企画「読む楽しみ、編む愉悦」にて頒布した冊子の一部となります。
それゆえに書き方が「おもて珈琲さん店内で読むもの」という体になっている箇所があります。ご容赦ください。焼うどんが気になった方は是非ともおもて珈琲さんへお越しください。ケーキも美味しいです。
この度「読む楽しみ、編む愉悦」と銘打ち、田畑書店のポケットアンソロジー(以下PA)というものを茅ヶ崎の喫茶店・おもて珈琲さんの店内で商う企画を行なうことになった。
ヨーコさんとこんトマさんの秋の読書三昧 チラシ
anthology アンソロジー・陶と絵と、文学と フライヤー表面
anthology アンソロジー・陶と絵と、文学と フライヤー裏面
PAとはどういったものなのか詳しくは後述するが(ブログ注 下記バナー参照ください)、ざっくばらんに言ってしまえば「お気に入りの短篇小説やエッセイを一冊の本にまとめて、君だけの最高の一冊を作ろう!」といったものである。主にパブリックドメインとなっている小説、芥川龍之介や太宰治など、の短篇が一冊の「リフィル」にまとめられており、それを「ブックジャケット」に編んでいく、というものとなる。とても業の深い良い遊びだと思っている。
今企画に当たり、まずはPAに収録されている作品を読んてみることにした。ここでラインナップを一読した時点で「ああこれ読んだことある、面白かったなァ」といった風に悠然と構えられたなら非常に気楽なものだったのだけど、お恥ずかしながら「ワァ、知らない作品だ!オッ、こっちはそもそも作者も知らない!」といったことが頻発したため、後の作業が大変難航した。何せこのPA、企画開始当初では合計139作品が収録されている。販売のスペース・お客さんの利便性の都合上、その全てを採択することは当然出来ず、打ち合わせの結果、43作品を選定することになった。「じゃあ43作品だけ読んだらいいんですね!」となるはずもなく、手持ちのリフィルや青空文庫を駆使して亀の歩みの如き遅読で一作品ずつ読み進めていった。
これに類する作業をされたことがある方ならおわかりいただけるだろうが、大まかに二段階の波が来る。
最初にやってくる波は
「次から次へ足していっても全然43に到達しない!」
であり、次にやってくる波は
「これも加えたいけれど43なんてとうに通り過ぎたわ!」
である。
調子こいて遠慮なく足し算した結果、引き算がとても辛い。一体全体私は何様のつもりだという気持ちをグッと堪えながら、数々の作品を泣く泣く不採択とした。先に述べた「業の深い」というのは、ここで湧き上がった感情に類似したものに起因する。
数々の作品を誰に気兼ねするでもなく手前の自由に取捨選択するという作業は、名状しがたい背徳感がある。
そうやってちゃちな辣腕をぶんぶこ振り回している中で、ふと
「自分でも一冊編んでみるか」
と考えた。
起点となったのは、梶井基次郎の『檸檬』だった。
これは数少ない既読の一作だったのだが、この度改めて読んでみるとその面白さに震えた。その際に得た感覚を元手に編まれたものを「愛おしく滑稽な人びと」と名付けてみた。各作品を選んだ理由やその他諸々は本紙の裏面に記載されているので、おもて珈琲さん特製焼うどんの出来上がりを待っている間にでも読んでもらえたらと思う。「愛おしく滑稽な人びと」についても、自前で編んだものを期間中棚に置かせてもらっているので、店内で自由に読んでいただければなお嬉しい。
滑稽、とは何だろうか。
辞書によると、滑稽とは
「①おもろしろおかしく、巧みに言いなすこと。転じて、おどけ。道化。諧謔。②いかにもばかばかしく、おかしいこと。」(広辞苑第七版)とある。
この②の例文に「本人は大真面目だが、はたから見れば滑稽だ」と書かれている。そう、誰かしらの大真面目な様というものは、傍から見るとなかなかどうして可笑しみに溢れている。我が身を振り替っても覚えがあり、周囲の人びとに対してもそういう感情を抱いたことは一度や二度ではない。
しかし、それはつまり正反対に転じれば、傍から見ている分にはどうしても滑稽であるし何をしたいのかわからない所作の中にこそ、当人にとっての真摯さが込められているのではないかと思う。
可笑しいことは、表層的には笑いのタネとされてしまうものであると同時に、その奥底に潜在するその人の魂を知る契機でもある。先の『檸檬』にしてもその他の作品にしても、傍から見れば何とも無様で滑稽な姿を晒しているけれど、誰もがその瞬間に対して真剣だ。
無様を晒さぬよう周りに合わせて自分を曲げて、誰かの滑稽を常に笑う立場を固辞し続けていれば、きっとまぁさほど嗤われずに日々をやり過ごしていけるのだろう。しかし、自分の根底がそうさせてくれない、そう在ってしまっては自分が損なわれてしまう、衆目に己を曝け出そうとも己が己であることを提示する。
それは無様で格好良い。
だからこそ僕は、滑稽を愛おしく思う。
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