生涯でただひとつの

このところ、比較的あれこれと本を読む元気がある。

半ば自分をそういう状況に放り込んでいるが故でもあるけれど、それまで手に取らなかった作家の本を読んでみたりもしている。幸いなことに、これが面白い。今まで自分が読んできた本、それらから形成された今現在の自分の世界、その外側からやぁと気さくにやってきては僕をあっさりと魅了して新たな世界をお出ししてくれて、これまで培ってきた自分の矮小さと痛感すると同時にこれからの自分が眼差す新たな世界の可能性を期待せずにはいられない。


そんな折、ツイッターで「#生涯一作家しか読めないとしたら」というハッシュタグを見た。

なんとも殺生な話じゃあないですか、と思う一方で、そういう類の話はよく考えてしまう。


例えば、家が火事になったら。

今我が家には一体何冊の本があるのか、正確な数は誰も知るところではないのだけど(そういうものだろう)、もし火事が起きて1冊だけ持ち出すことができるとしたら、一体どの1冊を選ぶのだろうか、という妄想。

本当にそんなことが起きたら本どころではないかもしれないし、持ち出すにしても「手近なところにあったもの」となってしまうだろうから、あまり実態に即した話とは言えない。そんな実態起きてほしくないに決まっているのだが。


そもそも、この世には読みたい本が多すぎる。その全てを読み干すことはとうの昔に諦めている。

以前、友人と「生きている間に読みたい本を全て読むことは到底叶わないことについて」を話したことがある。その事実に対して、どういう感想を持つか。僕はそれに対して、いっそ希望を抱くと返答した。なぜなら「てことはつまりどんだけ読み進めてったところで読みたい本が死ぬまで無くなることはないという事」なので。飽くことがない、ということは素晴らしいじゃないか、という、己の肉体や精神の衰え、生活環境の変動といった要因から一切合切そっぽ向いてみて得た結論だ。

実際のところ、いつか本を読むことを捨ててしまう日が来るのかもしれないし、そういう日が来るより前に逝く日が来るのかもしれない。出来れば後者であってほしいし、そしてそれは可能な限りずっと先の予定であってほしい。


閑話休題。生涯一作家の話。

それならばやはり、今の自分を形成するに至った作家を挙げることになると思う。そうなると、あまり迷わず豊田徹也さんの名前を挙げることになる。豊田さんの作品に出逢ってなかったら、きっと今とは違う日常になっていただろう、という予感がある。無論他にもそうであろうと思う作家の方々はたくさんいる。でもおそらく、代替しようのない確かな座がそこにある。少なくとも、今のところは。


同時に、じゃあ他に音楽や映画ならこれというものは挙げられるだろうか、と考えてみる。こういう作業が楽しいのは、作品群に自分を照射して、そこから反響してくる光や音の具合を矯めつ眇めつすることで、ああ自分とはこういう人間なのかもしれない、という朧げな像を結んでみることが出来るからだ。その像はあやふやで、違う群に照らしてみたら全然違う像が結ばれることもあったり、逆に輪郭一つ伴わない影にしかなってくれない時もあったり、かつてはびしっとした像が出来ていたところへ久々に照射すると全く異なる結果がそこに写っていたり、そういう不確かさがある。

常に浮動し定型を持たず、そしてそれが確実になることはおそらく生涯通して起こらない。そういう自分を常に楽しみたい。

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