男性として

元より、男性は存在に攻撃性が伴っている。


今僕は男性で、これまでも男性であったし、今のところこの先も男性として生活していく心づもりをしている。その上で、この前提は自分の存在を考え言動をふるまう中でずっと外すことが出来ないものだと思っている。

そしてこれは、世の男性おおよそ対して「我々そう思って丁度いいくらいじゃないか?」と思っていることでもある。


前提の前提として、個々の人間が持つ善性であるとか日々積み重ねている善行といったものは、根本的な存在の上に成り立つものであって、攻撃性が伴っているというのはあくまでそのさらに手前、個々の人柄を一旦取っ払った根っこのところにある話。

この前提に対して「自分はそんな人間じゃない」というのは、少し位相がずれている。そりゃあ、自分が誰彼に対して身に覚えのない攻撃性を発していると言われるのは気分がいいものではないだろうし、それよりはまったき善良な人間であると無条件に受け入れてもらった方が多分心地いいのだろう(個人的にはそんなん最大級に警戒したくなるが)。

自分という人間を見知らぬ他者が見たときに、即座にその内々にある善性を見抜いてくれたら話は早いのだけれど、そんな超能力者はそうそういない。結局大抵の見知らぬ他者は死ぬまで見知らぬ他者だし、当然その人が善良な人なのか邪悪な人なのか、それはきっと知る由もなく、正体のわからないままだ。


一般男性が思っている以上に、少なくともこの日本社会では、女性は男性に相当痛い目を見させられている。痛い目程度では済まされず、言うなれば酷い目、もっと言えば殺してやりたい程の目にも遭わされている。僕は女性の友人から各々遭ってきた目について話を聞いたことがあるけれど、そのどれもが信じがたく、また度し難かった。

そしてそれらに僕は遭ったことがない。それはおそらく確実に、僕が男性であるから。

どういうシーンで、どういった間柄の人間から、どういう言動を以て。それが僕にはわからない。だから女性の体験談を聞くと、いつも面食らってしまう。


女性が男性から受けた被害の話を見聞きしていて、また逆にその体験者を攻撃、もしくは俎上に上がっている男性を擁護している声をも見聞きしているうちに、女性が傷つきやすいのではなく、男性が他者を傷つけやすすぎるだけなのではないか、とふと思った。そしてそれは、自分が傷つくことに耐えられない、自己愛で精いっぱいのか弱い防衛本能からくる攻撃性なのではないか、とも。いわゆる「男社会」的なもの、強くなくてはならず、弱音は吐いてはならず、傷ついてはならない、そういう信条の行く先にあるのが、自分が傷つきそうになったら他者を傷つける行動。そこにある刃は誰かに振るわれなければならず、そして自分であってはならない。そしてそれは自分より弱い者、自分が弱いと認知する者に向けられる。


まるで他人事のように書いているけれど、これらの言葉は全て僕自身に宛てたものだ。どれだけ考え親身になろうとも、僕は此方にしか立つことが出来ず彼方に行けない以上、本質の1%たりとも理解をすることは出来ない。

ならばせめて、自分という男性には攻撃性、加害性が前提として存在に付随している、そういう認識で生活していた方が、結果的に誰彼もが安心して生活できるんじゃないかと思っている。

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