大人を見下す日

BOOK PORT CAFEに来た、とある学生の方の話。

学校で朝読書の時間というものが設けられているらしく、その時間は黙して本を読んでいなくてはならないらしい。僕のときもあったから、ああアレ今もあるんだな、と思った。その方は自分で本を選ぶことが出来るし本も読むから、その辺の苦労は特にないようだ。

苦労はないが、大いに不満はあるらしい。どのような不満かと言うと、朝読書の際に読む本は、基本的に絵が無いものでなくてはならないのだとか。なんじゃそりゃって話だが、先生曰く「絵がある本は想像力を育まないため、朝読書の時間には不適格である」とのこと。

いろいろとツッコミどころが満載な論理だし言いたいこと積み上げたら成層圏突破しちゃいそうになるのだけど、つまるところ「私は本の審美眼もなく生徒の自由にさせることも度し難いので一律活字のみの本しか認めることが出来ない」と公言しているも同然な先生もとい学校の度量の小ささを思う事しか出来ないのだけれど、それはもう仕方ないとして。

その方は大いに先生を見下していた。そんな浅薄な理由で読む本の可否を判断している、そも読んでいいか否かを一方的に直裁する点において、大いに見下していた。奴ら、なんて言葉も使っていた。


この話を聞いていて、自分が大人を見下した日のことを思い出していた。

今でもやってるのか知らないけれど、僕が高校生のとき、先生方は学校の進学成績を上げるために躍起になっていて、出来がよろしい生徒のセンター試験の結果を使って私大のセンター利用入試に出願をしていた。

経験がある人は「あーあれね」ってなると思う。ない人はなんのこっちゃってなると思う。

ざっくりと説明すると(今はどうなってるか知らないので当時の話)

・センター試験の結果を利用して私大に出願、それだけで合否が判定される試験がある。

・国公立と違っていっくらでも併願できるし、二次試験もないから新たに試験を受けることはない。

・そこでいい成績を取るであろう生徒の結果を利用して、あちこちの有名私大に出願しまくる。

・その手間は全て先生方が請け負っていて、もちろん受験料も学校持ち。

・うまくいけば学校の進学成績がギャン上がりって寸法よ。

という、話。

つまるところ、生徒の成績と学校のお金を使って進学成績を水増ししまくっていた。そういう話だ。

いつだったかの年には、ひとりの生徒が学校全部の計150校分くらいの進学成績を賄っていた上、生徒に御礼として金品が渡されていたことが発覚し、問題になっていたのを覚えている。

さすがにそこまでえげつない真似はしていなかったけれど、僕の母校も同類だった。あいにくと金品は何も頂戴してないが。


閑話休題。

あの時、僕にセンター試験の結果を使わせてくれと言ってきた担任を、高3になったんだから部活はもう引退して勉強に専念したらどうだと言ってきて、秋の三者面談で模試の結果を見せて母親に物憂げに浪人を覚悟するよう言ってきた進路指導部長の担任の事を、僕はスッと見下した。心底「これは果たして何の意味があるんだろう」と思った。学校はお金を使って虚飾にまみれた実績をあげて、言ってしまえばウソでごまかした結果でニセモノの栄華を気取っているし、大学は数万円と引き換えに自分が出願されたことすら知らない生徒へ合格通知を送っている。何とも虚構にまみれた、薄気味の悪い話だ。

何よりもむかっ腹が立つのは、この気持ち悪い営為に、ほかならぬ自分が組してしまっていた、という事だ。自分がゴーサインを出さなければ話を進めることは出来やしなかったのに、目の前の自分の受験に手いっぱいで正直どうでもよく、生返事でいいですよと返してしまった。

あの日、僕は先生に了承を出すべきではなかった。もっと自分を大切にするべきだった。嫌ですと言って断固として跳ね除けねばならなかった。こんな無様なものに加担してやるべきではなかった。あの日僕が見下した大人たちに優しくしてやるべきではなかった。


大人は簡単に見下される。タテマエなんてものは薄っぺらな飴細工のように脆くて頼りない。そんな甘っちょろいものでは、真剣に生きている人は誤魔化されやしない。だから大人は権力にすがる。自分を立派に誂えてくれるものを欲する。そしてどんどんみっともなくなっていく。明日は我が身だと思いながら、裸一貫で生きていきたい。

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