現実とふわふわ現実の間
ふと、「医療崩壊って言うけれど、果たして本当に医療崩壊しているのか?」と思った。
確実にもう逼迫していることは明白であってこの人災にかかる全てに批判的な姿勢であることを確認した上で、改めて考える。
そもそも、日ごろどれほど日常の中に医療があるのか、によって、ここの捉え方は大きく変わる。
例えば、僕の日常には医療はない。
常用しなくてはならない薬もなければ、通院する必要もない。強いて言えば歯医者さんへそこそこ定期的に行くくらいだ(ここんとこサボっているけれど)。仕事は医療とは無縁のものだし、近くに病床がある類の病院もない。
毎日が正常に回り続けている限り、僕の生活に今のところ医療は必要ない。
だから、医療の現場が今どうなっているのか、直接病院にでも行かない限り正確なところを知ることはない。あくまでインターネットや新聞、誰かとの雑談で得た情報がすべてだ。
それはどれだけ真に迫った情報であったとしても情報を超えることは出来ず、肉感を伴うものとして僕の中に落とし込まれることはない。日に日に悪化していく情勢に対して、ただひたすらに不安感が増すばかりだ。
そうなると、「でも実際に僕の周りでは何も起きていないんだし、医療崩壊ってのも実はしてないんじゃないか?」と思う方へ向かう道をこしらえたくもなる。だってその道に進んだら、安心するからだ。医療なんて崩壊してないし、なんなら皆が言うような恐ろしい感染症だって本当は存在しないんだ。だってそんなもの知らないから。きっとそれでみんなを不安にして得をする奴らがいるんだ。だからそれは全部嘘なんだ。
こんな逃避的な道程をこしらえるのは、ものの数秒あれば事足りる。現実に起きていることを考えずにただ自分の都合いい材料だけで直截的に判断したら、いともたやすくこうなる。
僕自身、あまり現実を直視するのしんどいな、と思うことはよくある。今テレビをつけたらオリンピックやってるそうじゃないですか。家にもないし職場の食堂には寄り付かなくなったから知らないけれど。つくづくアレも罪な道具だなと今回改めて思った。この前までオリンピックに批判的らしかった取引先の人も、家帰ってテレビつけちゃうとついつい見ちゃってなんとなくそのまま応援しちゃうそうだ。自分の中での整合性はどうやって取っているのだろうか。きっと放棄しているのだろうが。
コロナの感染者数を憂慮する傍らでオリンピックに熱中する、その様を風刺的に描いた植田まさしの漫画は面白かった。
ああいうものを見せられて、お大臣ぶって連日の新規感染者数を口にする一方で今夜の競技は何かなとウキウキしているうちの上司のような人たちが皆ヒヤリとしてくれたらと心から願う。
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