一生に一度

恐ろしい祭典が始まった。

数多くの問題、現在進行形で世界を覆っている災厄から骨の髄まで腐り果てた為政者まで、リストアップして概要を記しただけで本一冊になるんじゃないかというほどの問題、未だ全容すら明らかになっていないその一切合切が、まるで何もなかったかのようなシュクサイが始まった。


幸い、我が家にはテレビはない。一戸建てだからよそのおたくから騒音が聞こえてくることもほぼない(昔住んでいる家ではお隣さんが早朝までEURO観ててなんともウルサかった)。家にいる間は支配的な狂熱に晒されることはない。

職場の食堂にはテレビがある。今は高校野球が(なぜか)やっているから、そっちに注目が行くのか、それとも「やっぱり見なきゃダメでしょ」と言わんばかりに連日何かしらの競技が放映されるのだろうか。しばらく食堂以外のところで食事を摂ることにしようと思う。

「結局やってるのを見たら見ちゃうでしょう」と言われたら、多分そうだろうなと答える。まずスポーツ観戦自体は嫌いではないし、そも元々部活少年だった。中高六年間、なんだかんだずっと部活やってた。だから運動そのものも嫌いではない。なんとなく見ちゃうしなんとなく楽しめちゃう。そしてテレビというモノは人の注目を自然と集める存在をしている。それに真っ向から抗うほど、僕は強くない。だから見たくないときは最初から近寄らない。そしてこの度の一切は可能な限り見たくない。なぜなら存在そのものが度し難いものであり受容してはならないとしか思えないからだ。


でも一生に一度なんだから、と人は言う。せっかく自分の国で生きている間に開催されるのだから、目いっぱい楽しもうよ、という風に。

一生に一度。まぁそうなんだろう、自分の生きている間に再びそういう祭典が開かれる可能性は、そうそうない。

この言葉がとても苦手だ。言葉を選ばないなら、嫌いだ。

勝手に他人の一生を規定しているところや、物事の価値をレアリティにしか定めていないところ、そして価値の決定基準を自分の外に置いていることに一切の疑念がない様子なことがとても性に合わない。そして「一生に一度だから」が動機となった行動には、「損をしたくない」という行動原理が引っ付いている。そういう頭の時は即物的な損得勘定だけで行動をしてしまうし、それが果たして本当に善いことなのか、という事を熟考することもなく、ただひたすら相手方の煽動に乗っかって祭りに興じてしまう。浅ましいと思う。


自分の思う一生に一度とやらは自分で決めているし、そこで楽しみの在り方を指図される謂れもない。そも、いつ終わるとも知らないのに勝手に決めてかかった、一生に一度しかないこととやら、がそこまで大切なのだろうか、とも思う。特に変わり映えしない平穏な日常のこれまでと今とこれからを全て総動員して、瞬きしたら終わってしまいそうな狂騒をこしらえる感覚が、僕にはわからない。

大きなものに対してしか「一生に一度」という気持ちを抱けないこともまた、全くもってつまんないなとも思う。一見平坦な日常の中にだって、そこかしこに「一生に一度」があるものだろう。誰かが用意した強制的で欺瞞的な「一生に一度」よりは、自分が自分を生きている中で不意に訪れる「一生に一度」を大切にしたい。心からそう思う。

こんぶトマト文庫のふみくら

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