“技術”の恢復 テクニウム/ケヴィン・ケリー 訳)服部桂

 台所でやかんにお湯を沸かす。この当たり前の日常風景ひとつの中に、ありとあらゆる無数の技術が存在している。

 まず、手元にやかんがある、この状況がすでに技術の積み重ねの上にある。やかんという道具の発明、やかんの機能的・造形的デザインの構築、使用される金属やその他素材の加工、安定した流通網や貨幣経済の確立、購買行動にかかる事柄に関する教育。これらの段階それぞれにも有形無形問わず多数の技術を要するのだから、一個のやかんを支えている技術の数は膨大になる。蛇口をひねれば出てくる水も、安定して水を供給できる貯水設備、安全な飲用水にする浄水設備、家庭へ水を運ぶ上水道の確立、そして各々が安定して稼働するためのメンテナンス作業がないと安心して使えない。お湯を沸かすためにも、電気もしくはガスを供給するインフラ、それらを安全に利用するための理論や法律、専門知識がなくとも安全に使用できる設備や機器の設計などなどなど、必要な技術は山ほどある。

 もしもこれらがなかったら。まず火に耐えうる素材を探して水を溜められるよう加工し、水場まで水を汲みに行き、さらには火を熾す用意をしなくてはならない。やかん代わりのものは一回作ればしばらく使いまわせるだろうけれど、水はすぐなくなるし火も焚きっぱなしというわけにはいかない。寝起きでコーヒー飲みたいなと思ったときにとれる行動ではない。

 それを僕は、特に意識を払わずとも何一つ問題なく行ない、眠気を携えたままコーヒーを飲むことができる。


 以上のことができるからと言って、僕は自分が他の動物よりかしこいと断言できる自信はない。たまたま「技術」が発達している時代にそれを我が物顔で用いる種に生まれ、当たり前に享受できる環境で生活しているだけだ。過去の誰かが発見し、日常的に活用できる形に仕上げてくれた「技術」の恩恵を頂戴しているに過ぎない。

 「技術」は常に人と共にあるけれど、「技術」は人に属していない。本来自然の中に潜在しているものを努力の末に見出して、それを人の都合に合わせて活用しているだけだ。技術は全て人が生み出したものでその全てを自在に操ることができる、という考えは甚だ傲慢で浅はかなものだと思う。実際の現場で働いている人ほどそういう考えからは遠いところにいる。「技術」がそうそう簡単に人のものにはなってくれないことを、肌感覚と経験で̪知っている。

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