11月18日(月)0時27分

「勝手に読む読書会」と称して、本を読む時間を設けている。

普段から本を読む時間をきちっと作っていたらそれで全然ことは足りるのだけれど、差し迫ってきた引っ越しの準備をしたりシミシミの大根が入ったおでんを仕込んだり資格勉強をしたりといろいろしているうちに、時間が無くなる。なおシミシミの大根は良い感じにお箸で割れた。

そうでなくとも、切っ掛けを作った方が読みやすい本ってあるよな、という一身上の都合で始めた企画、今のところ僕個人には良いように作用してくれている。


『百年の孤独』を読んでいる。今年発売された文庫の中でも注目度は最上位にあるだろう。来年の2月に『族長の秋』が出るけれど、多分これほどの盛り上がりはないはずだ。個人的には大歓迎。

今日もまた少しずつ読み進めて、全体のおよそ3割5分ほどまで進んだ。ブレンディア一族と彼らが興した村マコンドの盛衰の物語。生半ならない時間間隔と幾人も出てくるアウレリャノに惑わされてなかなか読み進められない中、「読んでいて物語の中に入っていけるか」と問われたときに、ふと思い至ったことがある。


小説を読むとき、ひとつの指標として「読んでいる物語の中に自分を置くことが出来るか」あるいは「自分を投影することが出来るか」「登場人物に感情を移入することが出来るか」といったものがあると思う。

今まで読んできた物語に対しても、自然そういう見方で読んでいた時が多い。主人公の在り方に自分が得心いくのか、揺れ動く感情の機微に自分のそれも同調しているのか、などなど。


そこへいくと、この『百年の孤独』という物語の中には入ることが出来そうにない。そもそも、入る入らないといった距離感に存在する物語ではない。もっと遠い存在だ。たとえるなら、神話の世界のような。日本書紀やギリシャ神話の話を読んでいて、その中に自分を投影させるといったことはあまりしないように思う。少なくとも自分はそういう感覚で読んだことはない。そしてこの『百年の孤独』もまた、そういう距離感で読んだ方が読みやすいものなのではないか、ということに気づいた。

実際物語の浮世離れ具合というか、魔術的リアリズムと称される手法で描かれる物語には、一朝一夕ではいかない近寄り難さがある。むしろ立ち寄るところに立っていない。そもそもそれは蜃気楼のようなものなのかもしれない。それぐらいの現実感。絵巻物を前にしているような感覚。


これまで意識したことが無かったけれど、物語とは、そういう付き合い方もあるのかもしれない。

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