言葉を出す
言葉を出すこと。
口から発される言葉、紙に綴られる言葉、電子で打たれる言葉。
それらの言葉は何処とも知らない場所から突然出でたものではなく、言葉を発する主体、たとえば僕の中にあるもの、からやってきている。
外に出た言葉は、周りに反響する。時には共鳴を起こす。誰かに言葉を響かせる。
誰かを震わせた言葉が、別の誰かを震わせるとは限らない。そして、誰にも届かないと思った言葉が、知らぬ間に誰かへ届いていることだってあるかもしれない。
僕の中にあるものは、言葉となって外に出た瞬間、僕だけのものではなくなる。それを見聞きした誰かに届き、響き、震わせる。言葉が誰かの中に入り、変革を起こさせる。時にはそれがまた別の誰かのもとへと届けられることになるかもしれない。自分だけのものでなくなった言葉がどうなるか、それは誰にもわからない。そしてそれはもう戻らない。言葉がなかった時に戻すことは誰にだってできない。撤回しても、訂正しても、謝罪しても、何をしても。
だから、言葉を出すことはとても大切なことだと思う。誰かを鼓舞することや慰撫すること、激高させることや煽動すること、生かすことや殺すこと。言葉はなんでもできてしまう。
言葉を出すことそのものは、おおよその人ができる。ましてや今はインターネットで、より多くの人に容易く自分の言葉を呈することができてしまう。本当に容易くできてしまう。
その功罪を見たとき、功が無いと言ったら嘘になると思う。閉塞した状況の中で誰かに救いや助力を求めることのハードルが下がることは、掛け値なしに良いことだと思う。
功と罪を両天秤にかけたとき、罪を乗せた皿が地に落ちるのだろうとも思う。悪意の流布は恐ろしい。犬笛とも称される、悪意と害意で彩られ差別心と敵愾心を煽り立てる言葉。あっという間にそれは広がり、どす黒い染みを広げていく。色濃く染まっているところはよくわかる。恐ろしいのは、染まっているのかそうでないのか、一目ではわからない程度のところ。どこまで広がっているのか、わからない。それが本当に僕は恐い。
口はつぐまないことにした。
「私はこうである」と言葉に出すこと、自分自身はこうであると言葉にすることで、それに染まる気はない人がいる、ということを明示する。自分にも、他者にも。
語彙や権威が強い言葉ばかりで自分を溢れさせると、膨大な言葉に自分が溺れ、自分の中にあるものを見失ってしまう。その激しい濁流の中に自分を同化させることは、あたかも自分もまた強大なものになったかのような錯覚に陥って、きっと気持ちいい。でも、それは駄目だ。自分の手と足を使わずにどこかへ行った気になったとしても、それは自分の力ではないし、流れが途絶えてしまったら浜に打ち上げられた魚のように跳ねることしかできない。
自分自身の言葉を持ち、それを外に出すことで、僕の中にあるものを自分のものとすることができる。か弱かろうがちっぽけだろうが、自分の手と足で進む方法を知っている。
そう在りたいと、思う。
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