“心”の恢復、あとがき 新編 宮沢賢治詩集/編)天沢退二郎

 2020年4月、緊急事態宣言が布告された。その時点で分水嶺はとっくに超えているように見えていたけれど、政府は直前まで依然強気な姿勢を崩していなかった。しかし状況は明らかに分が悪く、かといってなかなか踏ん切りがつかずズルズルと結論が引き延ばされ、いよいよどうにもならなくなった末のやけっぱちの宣言。そういう印象だった。

 余分な外出は人の目によって咎め立てらた。外出の折にはマスクを付けるようにと促されてもどこにも売ってない。政府が息巻いて用意した布きれはいつまで経っても届かず、一人暮らしの僕の身を案じてくれた友人が送ってくれた布マスクが先に届いた。当時は50枚の箱入り不織布マスクが数千円していて、高いと思ったけれど背に腹は代えられない、と言って会社の上司はネットで一箱七千円でマスクを買い、内5枚ほどを僕にくれた。なんだろうなぁこの状況は、と世界の狂騒を板越しにぽつねんと眺めている中で、そうやって自分を気にかけてくれている人たちがいる、というのは素直に嬉しかった。

 とは言っても、先行きの見えない日常、どこへ行くにも制約がかかる生活を送ることは相当にストレスだった。1月から始めたばかりのブックマンション、そこで結ばれた人との縁や環境に新しい生活を夢見ていた、そんな矢先に強制自粛生活は始まった。その生活の中で、僕は本が読めなくなった。元々読書量が多いとは言えない質だけど、あの頃は本当に全く読めなかった。本を開いても目が文字の上を滑っていくだけで、一行読んで次の行に移ったときにはもう前の行を忘れてしまっていた。いや、忘れたんじゃない、一文字たりとも頭に入っていなかった。結果一頁も読み進められることなく本は閉じられた。

 不調なのは読書だけではなかった。音楽を聴いても、映画を観ても、何をしても全く身が入らず、窮屈で色褪せた時間だけが過ぎていった。


 きっかけは全く覚えていない。唐突に僕は、声に出して本を読んでみよう、と思いついた。後々思い返すと、2月に出会ったとある創作をしている人が、今朗読について色々考えている、という話をしていたのをフンフン頷いて聞いていた、それが頭のどこかにあったからだと思う。あの時の僕はそんな回想をする余裕などなく、何か一つ思い至るものがあってそれに向かう気力がある、ならばそれをやるしかない、と一目散に本棚とその辺に積み上げられた本の前に向かった。

 何を読もうか、ということはあまり考えなかった。直感的に選んだのは、天沢退二郎編纂の『新編 宮沢賢治詩集』だった。以前読んだ幸村誠の『プラネテス』で宮沢賢治の詩や作品がたびたび引用されているのがとても印象に残っていて、その後どこかの本屋さんで見つけて買った1冊だった。元々詩集、もとい詩に馴染みがあったわけではない。どちらかと言えばあまり手を伸ばしたことのない、はっきり言えば苦手意識があるものだった。でもあの日、僕が選んだ本は詩集だった。その中に編まれていて、『プラネテス』の作中でも引用されていた『小岩井農場』の篇を読んだ。

 不思議な経験だった。読み慣れていた本や漫画ですらまともに読めていなかったのに、ひとつ言葉を声に出して読み始めたら、そこからするりするりと次の言葉が口を衝いて出てきて、気が付けば一篇の詩をすべて読み終えていた。

 もう一度、同じ詩を声に出して読んだ。さっき以上に口から出る言葉はよどみなく紡がれていって、同じように気が付けば読み終えていた。

 少し呆けた。何だったんだろう今のは。ここのところ本が全然読めなかったのに、短い詩とはいえ何一つ苦心することなく読み終えることができた。

 その時、とても素朴に根拠なく、でも強く確信したことがあった。

きっともう大丈夫だ。本も読めるし音楽も聴ける、映画も観ることができる。世の中の状況にどうしようもなく打ちのめされていたけれど、僕はもう大丈夫だ。そう思った。


 去年のあの時は、まさかこんなにも長引き、そして状況が一方的に悪くなるとは思っていなかった。感染の拡大を止めるためには公的な手立てよりも各々の自助的努力をと強く促され、楽観的な予測を元手に政策は進められ、その結果がこの有様だ。正直、この状況下で医療をすっぽかして住民投票やリコールを優先する人たちがいるとは思わなかった。なんだなんだろうなぁこの状況は、と思う日々は相変わらず続いているし、今のところ終わりが見える気配もない。

 そんな中でも生きてかなきゃならない。自分を蔑ろにする人たちに立ち向かいながら、自分が大切にしたい人たちと共に在りながら。

 そのためにも、僕は本を読み、音楽を聴き、映画を観て、おいしいものを食べる。誠実なものを尊敬し、大切な人たちを愛し、度し難いものには声を上げる生活を続けていく。自分の生活を自分のものとするために。

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